アメリカン・スナイパー 5

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■私は、決して戦争翼賛者ではありません。平和が好きです。しかしこの本を「戦争を翼賛する悪い本だ!」と読んで「戦争反対!」と叫んでいる人たちは、まさに「戦争大好き、戦争翼賛な人々」と同じ程度に、頭のネジがひどく外れているんじゃないかと思います。

■私も「アメリカン・スナイパー」は、むしろ「反戦本」だと思います。映画化したクリント・イーストウッドもそう言っていますが。クリス・カイルは、狙撃手としては「加害者」といえるでしょう。100名を超える「敵」を狙撃で直接的に殺しました。また、他国のもめ事に介入を続けるアメリカ合衆国の兵隊として「加害者」といえると思います。しかし、その加害者としてのクリス・カイルは、戦争の中でどんどん崩壊し、狂っていきます。彼の家族も間接的にその犠牲になっていくのです。これを「悲惨」と呼ばずして、何だというのでしょう。犠牲者を描くことだけが「戦争の悲惨さ」ではありません。殺す側にも、これほどの葛藤と苦悩があることを、私はこの本で初めて知りました。

■「愛国」とは何かと考えずにはいられません。愛国とは、外国へ出かけて行って戦争をして、人を殺すことでしょうか。異教徒や「自らと異なる者」を嫌悪し排斥することが「愛国」なのでしょうか。愛国というのは、誰かをけなし傷つけ排斥し殺すことから得られる連帯感なのでしょうか。

■クリス・カイルは「愛国、愛国」と唱え続けましたが、その本質は「隣人を守る」ことでした。クリス・カイルにとっての「隣人」とは、家族でも地域の人でもなく、まさに「となりの人」、自分とともに戦う同僚の兵士でした。

■もし「愛国」というものがあるのなら、そういう具体性の中にしか「愛国」は存在しないのではないか、と私は思い始めています。それは家族かもしれません。地域かもしれません。自分の側にいて、自分と共に笑い泣き、様々な経験を共にした人々。だからこそ、相手をわが身のことのように思いやれる……。そういう利他感情からしか「愛国」などというものは沸いてきようがないのではないか、と。

■それは人かもしれないし、場所かもしれません。私は今、生まれ育った場所を遠く離れて生活しています。時折空気の中にまじる「桜のにおい」や、夏の虫の声が聞こえたような気分を、感じ取ることがあります。そのときに湧き上がるのは、自分を包み込み、育ててくれた「具体的なある場所」に対する強い思いです。それは様々な感情と共にあり、そこから派生する記憶が、どっと押し寄せるのです。

※これでおわり。私は英語版の American Sniper を読みました。映画は未見です。本は翻訳が出ています。

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