役立たずTwitterは役立たずだから人が集まる

初期の2ちゃんねるが持っていた「あやしさ」は、1990年代に一時的に盛んだった「パーティーライン」に非常に近いものがあったと思う。

パーティーラインというのは、複数で会話ができる電話のこと。ある番号に電話をすると、複数で会話ができるサービスのこと。でも、自分が話をしている相手がどこの誰なのか全然わからないし、自分も身分を明かす必要もない。これは何とも魅力的なサービスだった。

番号に電話をかけると、もう誰かがしゃべっている。そして、自分もおそるおそる「もしもし」と言ってみる。2ちゃんのスレッドに、初めておそるおそる「テスト」と書き込んでみる、そんな気分。すると、どこからともなく「もしもし」「こんにちは」「いらっしゃい」と返事が返ってくる・・・・そして、会話は始まり、たいがいの場合はケンカになり罵りあいになり、何人かが嫌になって「おちて」いく。次の日、また電話をかけてみると、昨日と同じ人がいる。名まえは、みんなハンドルネーム。ちょっとした「あやしいサロン」的な楽しみがそこにはあった。そうしてパーティーダイヤルにはまり、ある日とんでもない電話料金を請求されて初めて目が覚める・・・、というケースが多かったのではなかろうか(というか、自分はそうでした)。


ではツイッターはどうか?

始まりがアメリカ発のサービスなので、匿名ではなく実名・・・、というよりも発言者の同一性確保を前提とした形でのサービスとして誕生している。そもそもログインしなければ利用できない。


にもかかわらず、2ちゃんからツイッターへサービス利用者が移行し始めているように見えるのは何故か?


匿名コミュニケーションの遊びというのは、実は非常に高度な楽しみだ。一定のルールを瞬時に察して、しかもそれを守って楽しめる「賢さ」が必要とされる。一人でも、守れない人が出てくると、全部ぶち壊しになる。こういう遊びは、子どもには早すぎる()。インターネット人口の増加に伴って、2ちゃんねるに子どもが増えすぎて「匿名故のコミュニケーションの生産性」があっという間に崩れ去った。


例えばバーでの会話。バーではみんな匿名だ。どこの誰かわからない。その匿名前提を守った上で、会話を楽しく成立させるには、コミュニケーションの鍛錬が未熟な子どもはダメである、というのと同じ。

「子ども」というのはよく言われるように、文字通りの「子ども」であることもあれば「子ども並みのオトナ」であることもある。

バー」といってもいいし、「サロン」といってもいいが、そこにあるのは「一定の敷居の高さ」をクリアした客が来ることが前提になっている。


「匿名故のコミュニケーションの生産性」とは、「誰が言っているか」というノイズに左右されず、「何を言っているか」によってのみ判断されるコミュニケーションの作法のこと。特別に何かを生み出す(オフ会や、何らかの「プロジェクト」)こともあれば、スレで完結だけということもある。その場合はだいたい「名スレ」が誕生している。


「匿名故のコミュニケーションの生産性」が崩壊した後、残ったものは何か? ということを考えると、ツイッターが何故2ちゃんを凌駕しようとしているのかがわかる。


2 ちゃん 発言統計

http://stats.2ch.net/suzume.cgi


雑談板のvip、及びlive系の板、すなわち単に実況や雑談をするだけの板の需要がいかに高いかがわかる。

生産性、ということを第一義におかなければ、つまり「何か意味や意義のあるものを共有したり生み出したりする必要などない」という観点に立てば、匿名であるか否かは、ほとんど関係がない。「誰かと何となく、緩く、いつもつながっていたい」という感覚さえ満たされ得るならば、別に匿名である必要はない。そして、実はこの需要がいちばん大きいのだ。

ツイッターは「匿名ではない」(発言者の同一性確保が前提)ので、「生産的な議論」をしようとするとき、便利であるという利点もある。ただ、この利点はあくまでも「立派なユーザ」「有名人ユーザ」によって成し遂げられる「オマケ」に過ぎない。「みんながツイッターを利用するのは議論の生産性が高いから」というのは、少し違う気がするのだ。


<追記>

「緩さ」という点がとても重要。mixiにはこれがない。

2ちゃんねるは「緩さ」を、「匿名」で担保した。

 1999年-2000年初期にはネット人口が少なすぎて、匿名であることがとても重要であったのだ。

ツイッターは「つぶやき」という、一方通行にもなりうるコミュニケーションの言い訳で担保している。